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中央卸売市場の沿革

1.東京都における市場のはじまり

東京都における生鮮食料品市場の歴史は、徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)前後までさかのぼることができると言われている。
一説によると、徳川家康が江戸城に居を構えた天正18年(1590)に、摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃町)の名主、森孫右衛門という者が、その一族9名と漁師30余名を連れて江戸に入り、徳川家の需要に応じるとともに、許しを得て一般庶民にも販売したという。これが住民の増加に連れて、次第に大規模になり、後年いわゆる魚河岸と称されるものに発展した。青果物の市場も、ほぼ同じ頃、数カ所に設けられたというが、魚市場のように特に幕府の許しを得て開業したものではなく、起源のはっきりしているものがない。
これらの市場の運営、取引などについては、幕府はあまり干渉せず、市場業者が自由に行ったため、同業者間の無益な競争、取引の乱れ、不充分な衛生管理など、住民の食生活の安定を害するようなことがしばしば起こったが、市街地の拡大、人口の増加に伴って市場の数も増加し、規模も大きくなっていった。
明治維新による社会情勢、経済事情の急変などがあって、市場が一時衰えたため、東京府は、この対策として明治10年「魚鳥並青物市場及問屋仲買営業例規並税則」を公布した。これは、市場の数と位置を限定するとともに、問屋・仲買業者の数を制限し、また、その組合を結成することを命令し、免許料及び府税を徴収することとしたものである。この例規は、生鮮食料品市場に関する規定としては、過去に例のない整ったものであった
この例規により開設を許可された市場の数は、水産物4〔日本橋(現、中央区日本橋付近)・新場(現、中央区小舟町付近)・芝金杉(現、港区芝浜松町付近)・千住(現、足立区千住橋戸町付近)〕、青果物16〔神田多町(現、千代田区神田多町)・神田連雀町(現、千代田区須田町付近)・神田須田町(現、千代田区須田町)・神田佐柄木町(現、千代田区須田町付近)・京橋大根河岸(現、中央区八重洲・京橋付近)・両国広小路(現、中央区東日本橋付近)・本所中の郷竹町(現、墨田区東吾妻橋1丁目)・本所千歳町(現、墨田区千歳町)・本所四ツ目(現、墨田区江東橋2丁目)・駒込浅嘉町(現、文京区駒込付近)・千住中組(現、足立区千住橋戸町付近)・青山南町4丁目(現、港区南青山3丁目)・南品川五丁目(現、品川区南品川・青物横町付近)・四谷内藤新宿一丁目(現、新宿区新宿御苑付近)・下谷金杉村原宿町(現、台東区下谷3丁目)・本芝四丁目(現、港区芝付近)〕であり、この後にも数カ所に開設が認められ、中央卸売市場が開設されるまでの間、庶民の食生活の安定に寄与した。
また、この例規は、明治29年「食品市場取締規則」が公布されるとともに廃止され、市場の監督権は、東京府から警視庁に移った。

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2.中央卸売市場法の制定

中央卸売市場を開設する根拠となる「中央卸売市場法」が制定・公布されたのは大正12年3月である。
最も早く中央卸売市場開設の必要性を唱えたのは日本橋魚市場組合であった。この市場は、東京で最も長い歴史を持った大市場であったが、市場の発展に伴って施設の狭さ、取引の乱れ、同業者の過当競争は極度に達していた。このため、明治44年に組合の決議をもって、東京市に対して、市営による総合市場の開設の請願を行うとともに、貴族院・衆議院及び農商務省に対して、中央卸売市場法制定の請願書を提出した。
国においても大正元年には、市場法の試案を生産調査会に諮問し、慎重に検討を続けていたが、大正3~7年の第1次世界大戦の拡大が、我が国の経済に好景気をもたらす反面、物価の高騰と一般市民の生活難を招き、これが大きな社会問題となったため、政府は「暴利取締令」をもって商人の暴利を抑制しようとした。しかし、社会不安はますます増大し、遂に大正7年末、全国にわたって米騒動が起こった。このため政府は、六大都市をはじめとする各地で公設小売市場を設けて社会不安の緩和に努力したが、この公設小売市場の機能を充分に発揮させるには、その元になる中央卸売市場を開設すべきであるという意見が強くなり、これが直接のきっかけとなってようやく中央卸売市場法が制定・公布された。

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3.東京都中央卸売市場の開設

大正12年3月に制定・公布された「中央卸売市場法」を受けて、昭和2年に京都市が全国に先駆けて中央卸売市場を開設したのを初め、昭和5年に高知市、昭和6年に大阪市、横浜市、昭和7年に神戸市と続々と開設された。
東京においても直ちに建設計画に着手したが、大正12年9月関東大震災が起こり、日本橋魚市場をはじめ、ほとんどすべての市場が被害を受けたため、この計画は急速に進展した。
まず、在来市場の復旧開業を禁止し、当面の善後策として、魚市場(築地)、江東青果物市場(本所横網)に市設の臨時市場を建設し、在来市場の業者を収容した。これはやがて常設的な市設卸売市場となり、昭和10年に東京市中央卸売市場が開設されるまで継続された。
これと並行して、東京市は本格的な中央卸売市場の建設計画を進め、大正13年に第1次分場計画として本場(築地)及び2分場(神田・江東)の建設を市議会で議決した。
その後、昭和7年の東京市域拡張に伴い、散在していた60余の私設市場を統合収容し、市場機能を充分に発揮させるため、第2次分場計画をたてて、荏原・淀橋・豊島・足立方面にそれぞれ分場を建設することとなり、同年、市議会で議決された。
このようにして、中央卸売市場開設の準備は着々と整い、昭和2年江東分場、昭和3年神田分場、昭和8年本場が完成し、昭和6年6月本場、昭和9年神田・江東両分場の開設が認可された。しかし、卸売人の単複問題、仲買人を始めようとする諸業者の収容問題などが容易に解決せず、昭和10年2月になって築地本場青果部・鳥卵部・魚類部(淡水魚のみ)、神田分場、江東分場、同年6月、本場魚類部塩干魚、同年11月、本場魚類部鮮魚と、課題の解決した部門から、順次中央卸売市場としての業務を開始した。
その後、第2次分場計画による荏原・豊島・淀橋・足立の4分場が、それぞれ昭和11年6月、昭和12年3月、昭和14年2月、昭和20年2月に業務を開始した。
中央卸売市場の開設が生鮮食料品の流通に及ぼした効果は大きなものがあった。
その第1は、「公正な価格の決定と取引の明朗化」である。これは、中央卸売市場法によって、市場取引にせり売の原則がうち立てられたことによるところが大きい。元来、せり売は青果市場での取引慣行であって、魚市場では全くせり売の経験がなく、取引はすべて袖やり・耳やりなどの秘密相対売であった。このため、開場当時は相当の混乱があったが、開設者である東京市の指導監督も、せりの公正に主眼を置いたため、1年足らずの間に、整然とした取引が行われるようになり、他都市の模範となった。
第2は「価格と品質の安定」である。中央卸売市場においては、需要と供給が一箇所に集中するので、価格は自然と調整されて変動が少なくなった。また、毎日の卸売価格が正確に発表されたので、生産者や出荷者の出荷調整に役立った。さらに各産地から各種の生産物が集まるので、さながら品評会のような状態となり、品種改良や包装の改善・統一を促進することになった。
第3は「保健衛生上の効果」である。中央卸売市場は、従来の私設市場と異なって、施設が完備していたうえに、開設者も衛生面に配慮したため、市場内の衛生状態は良好になった。

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4.戦時統制経済化の市場

市場開設後、日もまだ浅い昭和12年7月、日華事変が勃発した。これをきっかけにして日本経済は統制の時代に入り、中央卸売市場もその役割の重要な一端を担うとともに、機能に大きな影響を受けることとなった。戦時経済下における膨大な戦費の支出は、通貨の膨張を招き、それに連れて物価が上昇して国民の生活は非常に厳しい状況に置かれた。政府は、国民の生活を安定させるためには、物価の安定を図ることが最優先であるとして種々の政策を講じたが、インフレ傾向を抑えることはできなかった。生鮮食料品も例外ではなく、中央卸売市場の卸売価格は、昭和11年から15年までの間に、水産物、青果物などほとんどすべての物品に渡って2倍を超え、特にきゃべつは6倍以上にもなった。
昭和14年9月、政府は国家総動員法を発動し、これに基づいて定められたいわゆる「価格停止令」によって、一般の物資・料金については物価の上昇は避けられたが、生鮮食料品は、その特殊性もあって、加工品を除いて適用を除外されたので、依然として上昇を続けた。このため、翌昭和15年8月、戦時体制下における中央卸売市場に対する統制の第一歩となる「生鮮食料品の配給及び価格の統制に関する件」が発せられた。その主な内容は、せり制度の改変(定価売・入札売の採用)、卸売人手数料の低減、仲買人の口銭制限、荷主及び買出人に対する奨励金の全廃などで、その一つ一つがすべて中央卸売市場の運営に大きな影響を及ぼすものであった。また、同年3月に、生鮮食料品としては初めて、食用うなぎに公定価格が設定されたのを皮切りに、翌年中にはほとんどすべての生鮮食料品の価格が公定され、本格的な統制段階に入った。
公定価格設定の結果、卸売価格は一様に低落したが、これと同時に、中央卸売市場への入荷量の激減、配給経路の著しい混乱、市場外のやみ取引の横行、品質の低下などの現象が生じて、生鮮食料品の流通に大きな変動を与えた。
その後も公定価格は何度か改定されたが、単なる価格の公定が、国民、特に大都市住民の食生活の安定に利するものではないことが明らかになったため、昭和16年、配給統制規則を公布(鮮魚介4月、鮮魚介を除く水産物翌年1月、青果物及びいも類8月、食肉9月)し、完全な配給統制時代に入った。これによって、中央卸売市場本来の機能は事実上停止し、卸売人は配給機関となり、仲買人はすべて廃止された。

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5.戦後統制経済下の市場

第二次世界大戦は、昭和20年8月15日に終戦を迎えた。ほとんどすべての都民は、衣食住、なかでも食の欠乏に悩んだ。戦時中の統制は無視され、やみ市が公然と形成された。政府内でも統制撤廃の考え方が強くなり、同年11月には青果物及び鮮魚介の公定価格と配給統制は完全に撤廃された。
ところが、政府の意思に反して、インフレの徴候が現れはじめた。
このため、政府は種々の対策を講じたが、インフレ抑制の効果はなく、遂に翌年2月、食糧緊急措置令と金融緊急措置令を同時に公布して、やみ行為を厳重に取り締まるなど、再び統制経済を敷くこととした。
中央卸売市場は配給機構の中心として活動したが、入荷量は少なく、配給も円滑に行われなかったので、国は市場機構改革委員会を設置し、その答申を参考に鮮魚介・加工水産物・青果及びつけ物それぞれの配給規則を公布して統制を更に強化した。東京都はこれに基づいて、市場内に荷受機関・分荷及び指図機関を設け、集荷・配給を行った。
戦時統制下における荷受機関としては、水産物・青果物ともに、それぞれ単一の統制株式会社があるだけであったが、戦後、統制会社令の失効により普通会社に移行した。更に独占禁止法や過度経済力集中排除法などが公布されると、これら普通会社に代わって、各市場に1ないし2の新会社(水産6・青果8)が発足した。また、上記会社のほかにも各種組合なども荷受機関として指定されたため、あわせて水産23・加工水産物15・青果物21、つけ物37の多数にのぼり、それぞれが激しい競争をしたので、どの市場も活気に満ち、せり取引も復活した。しかし、せり取引によって価格は急上昇し、公定価格を上回ったため、これを禁止したところ、今度は入荷量が激減したので、政府は、公定価格の改定、出荷者に対する見返り物資の給付などの対策を講じて集荷に努めた。
昭和23年頃になると食糧事情も好転し始め、公定価格を下回るものさえ現れた。消費者は従来の量中心から、品質を重視し、豊富な品種を要求しはじめた。配給品の拒否という現象も生じて、配給制度は徐々にその存在意義を失っていった。

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6.市場の復興

統制解除は果実から始まった。果実は戦後再統制の当初から、やみルートで流通するものの方が圧倒的に多く、一般都民も一種の贅沢品であるとして、あまり関心を払わなかったので、統制はないに等しい状態であった。そこで政府も昭和22年10月に果実の統制を解除した。これによって、価格は相当上昇したが、市場への入荷量も急増した。生産者や市場関係者は、引き続いて他の品物についても解除されることを期待したが、結局、つけ物は昭和23年12月、蔬菜は翌年3月に解除され、水産物については、一部が昭和23年7月に解除されたものの、全面的な解除は昭和25年4月まで待たなければならなかった。
果実の統制が解除された翌年の夏頃から蔬菜の出回りが順調となって、統制の全面解除が間近いことが予想されたため、東京都や市場関係者は市場の復興に着手し、その第一歩として昭和23年10月に東京都中央卸売市場業務規程の全文改正を実施した。
改正の要点は、統制規制における荷受機関を卸売人として復活させたこと、統制中に廃止されていた仲買人制度の復活に備え、仲買人に関する規程を設けたことであり、そのほか、取引などについて、戦後の新たな事態に対応するための改正も行った。これを受けて東京都は、統制が解除された品目ごとに、順次卸売人の業務許可を行った(水産物・蔬菜19社、果実21社)。仲買人制度も、それぞれの品目で卸売人が許可された後、半年以内に復活した。復活当初の仲買人数は、果実366、蔬菜96、水産物1,238人であった。また、これとともに売買参加人制度も復活した。
このようにして、生鮮食料品の統制が全面的に解除された昭和25年頃には、中央卸売市場は完全にその機能を回復し、取扱量も戦前の水準に達していたが、施設面においてはまだ充分に復興したとはいえなかった。各市場とも、戦災によってかなり大きな被害を受けており、荒れ果てた状態であった。加えて、大きな土地と建物を有する市場は進駐軍の注目するところとなり、築地市場は市場全施設の4分の1が接収され、洗濯工場・駐車場などとして使用された。入荷量が極めて少なかった統制時代は、ほとんど支障をきたさなかったが、解除後、入荷量が激増するとともに施設の荒廃と狭隘は重大な問題となってきた。このため東京都は進駐軍等に対して接収解除の陳情を行う一方、昭和21年度から27年度までの7年間に約3億円を投じて復旧に努めた。接収が完全に解除されたのは、昭和30年のことであった。

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7.卸売市場法の制定

中央卸売市場法は大正12年に制定されて以降、4回にわたり一部改正が行われたが、生鮮食料品等の流通事情の変化、即ち都市化の進展、消費の高度化・多様化、生産地の大型化、小売業の近代化等が急速に進行し、もはや対応し得なくなったため中央卸売市場に関する制度を改善するとともに、中央卸売市場以外の卸売市場についても統一的な法制を整備すべきであるとの各界からの要請を受けて、あらたに「卸売市場法」(法律第35号)が昭和46年4月3日公布され、同年7月1日施行された。
この法改正の主な内容は、次の3点であった。
第1は、卸売市場の整備を計画的に推進するための措置で、農林大臣は「卸売市場整備基本方針」及び「中央卸売市場整備計画」を定めるものとし、また、都道府県知事はこれらに即して、「都道府県卸売市場整備計画」を定めるものとしたこと、第2は、中央卸売市場の開設及び運営のあり方等につき改正を行ったものであり、特に、売買取引において適正な価格形成と取引能率の向上を図り、流通秩序を保持する等の見地から、せり又は入札売の原則及び委託販売の原則とその例外措置について所要の規定を設けるほか、卸売の相手方の制限、せり人の登録、仲卸業者の業務の規制等について定めたこと、そして第3は、中央卸売市場以外の卸売市場で、その施設が一定規模以上のものを「地方卸売市場」として、その開設及び卸売の業務は条例で定めるところにより、都道府県知事の許可を受けなければならないものとしたことである。

(1)中央卸売市場の整備

この卸売市場法の施行に伴い、東京都においても中央卸売市場法に基づく業務規程を廃止し、あらたに卸売市場法に基づく「東京都中央卸売市場条例」(条例第144号)が昭和46年12月1日公布され、昭和47年1月1日施行した。また、「東京都地方卸売市場条例」(条例第154号)が昭和46年12月27日公布され、昭和47年1月1日施行し、都内の中央卸売市場以外の卸売市場のうち法律に定める一定規模以上の卸売市場についても、地方卸売市場として許可し、業務の指導・監督を行うこととなった。
東京都は、上記卸売市場法の制定以前においても、昭和36年12月に首都圏整備10か年計画、また、知事の諮問機関として昭和37年3月に設置された東京都中央卸売市場流通改善対策審議会の答申の趣旨を尊重した東京都中央卸売市場整備8か年計画(昭和38年7月)を策定するなど、計画的に整備を行ってきた。
新しい卸売市場法の施行に伴い、東京都中央卸売市場流通改善対策審議会条例を廃止し、あらたに「東京都卸売市場審議会条例」(条例第155号)が昭和46年12月27日公布され、昭和47年1月1日施行し、卸売市場の整備計画を諮問する機関として同審議会を発足させた。
東京都は、この審議会の答申を受けて、昭和47年11月「東京都卸売市場整備計画(第1次)」を策定した。卸売市場整備計画の期間は10か年であるが、5年ごとに計画の見直しを行うこととなった。
その後、東京都卸売市場整備計画は、昭和52年3月に第2次、昭和57年3月に第3次、昭和61年12月に第4次、平成3年11月に第5次、平成8年11月に第6次、平成13年12月に第7次、平成17年11月に第8次と、順次策定してきた。
これらの東京都卸売市場整備計画に基づき、板橋市場(昭和47年2月)、世田谷市場(昭和47年3月)、北足立市場(昭和54年9月)、多摩ニュータウン市場(昭和58年5月)、葛西市場(昭和59年5月)、大田市場(平成元年5月)の各市場を開設した。
さらに東京都卸売市場整備計画に基づき花き市場を開設することとし、北足立市場(昭和63年4月)、大田市場(平成2年9月)、板橋市場(平成5年2月)、葛西市場(平成7年4月)、世田谷市場(平成13年4月)の各市場に併設して花き部を設置した。また、平成17年4月には、流通環境が激変する中で、食の安全・安心確保、流通の効率化、情報化と物流効率化推進などにより都民の期待に応えられる卸売市場を目指した東京都卸売市場整備基本方針(答申)が示された。
食肉については消費地への出荷が生体であることから消費地のと場が取引の中心的役割を果たしてきたため、市場取引の慣習が成熟しておらず、市場化が立ち遅れていた。しかし、昭和38年7月に閣議決定された「生鮮食料品流通改善対策要綱」の「芝浦に食肉市場を開設し食肉取引の改善を図ることを東京都に強く指導する」という方針に基づき、昭和38年8月「食肉市場設置方針」を決定した。この方針に基づき、芝浦屠場の関係業者に食肉市場開設についての協力要請を行い、東京都が半額出資(3億円)する卸売会社の設立と仲買人制度の設置により、昭和41年12月に、従来の都立芝浦屠場から取引部門を分離し、これを食肉市場として業務開始した。

(2)卸売市場をめぐる環境の変化と法改正

卸売市場法(昭和46年4月法律第35号)は、平成11年7月に改正(法律第109号)され、平成12年4月1日に施行された。
近年、卸売市場を取り巻く環境の変化は著しい。産地の大型化による発言力の高まりなど、川上の変化、消費の多様化や量販店など流通チャネルの多様化と競争激化といった川下の変化の中で、卸・仲卸などの経営の悪化などの状況を踏まえ、中央卸売市場関係業者の経営体質の強化、中央卸売市場における取引方法の改善、中央卸売市場の再編等の推進、地方卸売市場の活性化の4点を中心とした法改正を平成11年7月に行い、卸売市場の新たな展開と活性化を図ったものである。
その後の卸売市場をめぐる環境の変化にかんがみ、生産・消費両サイドの期待に応えられる「安全・安心」で「効率的」な流通システムの転換が図られるよう、卸売市場における取引規制の緩和及び適正な品質管理の推進、卸売市場の再編の円滑化等の措置を講ずるため、卸売市場法の一部が改正(法律第96号)され、平成16年6月9日に施行された。
法改正の主な内容は、卸売市場における品質管理の高度化、商物一致規制の緩和、卸売業者等の事業活動に関する規制の緩和、卸売市場の再編の促進、仲卸業者に対する財務基準の明確化、取引情報公表の充実である。

  • 品質管理の高度化
    品質管理の徹底を図り、安心できる生鮮食料品流通を確保するため、農林水産大臣が卸売市場整備基本方針等において品質管理の高度化のための措置を定めるとともに、開設者が業務規程において品質管理の方法を定めることとした。
  • 商物一致規制の緩和
    電子情報通信技術を活用する取引方法により、開設者の承認を受けて卸売を行うときは、市場内に現物を搬入せずに卸売を行うことができることとした。
  • 卸売業者等の事業活動に関する規制の緩和
    卸売業者等の事業活動の自由度を向上させるため、卸売業者等が買付集荷、市場外での販売、機能・サービスに見合った委託手数料の徴収を行うことを可能とするための規制の緩和等が行われた。
  • 卸売市場の再編の促進
    流通の広域化や情報化の進展を踏まえ、中央卸売市場整備計画に、地域の特性・要望を十分に配慮し市場ごとの自主性を基本に、運営の広域化又は地方卸売市場への転換が必要な中央卸売市場の名称を位置付けることとしたほか、卸売市場の再編を円滑に進めるための手続規定が整備された。
  • 仲卸業者に対する財務基準の明確化
    仲卸業者の業務の適正かつ健全な運営を確保するため、開設者が業務規程で仲卸業者の財務基準を定め、これに基づき経営の改善を図ることとなった。
  • 取引情報公表の充実
    卸売業者が行う取引情報の公表について、より透明性の高い市場取引を確保する観点から、せり・相対取引等の区分ごとの販売予定数量を公表する等公表内容の充実を図ることとされた。

東京都においても卸売市場法及びこれに関連する政令・省令の改正に伴い、取引規制の緩和、適正な品質管理の推進等の措置を講ずるとともに、市場の環境の改善等の規定を整備することから、東京都中央卸売市場条例の一部改正(平成17年5月1日施行)及び東京都地方卸売市場条例の一部改正(平成17年4月1日施行)を行った。
条例改正の主な内容は、多様な取引形態への対応、市場取引の透明性の確保、卸売業者・仲卸業者に対する規制の緩和、仲卸業者の経営体質の強化、食料品の安全の確保と品質管理の徹底など法の改正に伴うものと、都独自の事項として、関連事業者に関する規定の見直し、市場の大気等の環境改善を図るため、市場業者及び市場利用者の環境改善の努力義務の規定を新設するほか、非登録車両に対する車両の使用禁止等の措置の導入、売買参加者の承認の有効期間の更新制の導入、条例に規定する事項と規則に規定する事項の見直し等である。
なお、卸売業者の委託手数料等の弾力化については、業務規程で卸売手数料を定めなければならないとする規定が平成21年4月1日に廃止されるため、東京都中央卸売市場条例の一部改正(平成21年4月1日施行)により、卸売業者の届出制とした。

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